ジョン・レノン

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ジョン・レノン
MBE
1964年エド・サリヴァン・ショーに出演した際に撮影
基本情報
出生名 ジョン・ウィンストン・レノン
別名
  • ジョニー・シルヴァー[1]
  • ロング・ジョン・シルヴァー[2]
  • ウィンストン・レッグサイ[3]
  • ジョエル・ノーン[4]
  • ジョン・オーシャン[5]
  • ドクター・ウィンストン・オーブギー[6]、ほか[注釈 1]
生誕 (1940-10-09) 1940年10月9日
出身地 イングランドの旗 イングランド マージーサイド州リヴァプール
死没
学歴 リヴァプール・カレッジ・オブ・アート卒業
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間
レーベル
配偶者
著名な家族
共同作業者
公式サイト ジョン・レノン 公式サイト
ジョン・レノン、妻のオノ·ヨーコ(1969年)
ジョン・レノンのサイン

ジョン・ウィンストン・オノ・レノン英語: John Winston Ono Lennon1940年10月9日 - 1980年12月8日[注釈 2]は、イギリス出身のシンガーソングライターギタリスト、キーボディスト、平和運動家。ビートルズを創設したリーダーで、ボーカルギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」として多くの楽曲を制作した[注釈 3]。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した[注釈 4]

1970年のビートルズ解散後はアメリカ合衆国に移住し、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動から引退し、1980年に復帰するも、同年12月8日ニューヨークの自宅前において銃撃され死亡した。

前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいる。

主な代表曲としては、ビートルズ時代の「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」、リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「イン・マイ・ライフ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「愛こそはすべて」「レボリューション」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」「アクロス・ザ・ユニバース」「ジョンとヨーコのバラード」、また、ソロ時代は「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。

生涯[編集]

ビートルズデビュー以前[編集]

幼年期[編集]

1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦ドイツによる空襲下に置かれたマージーサイド州リヴァプールで誕生する。アイルランド系であった父のアルフレッド・フレディ・レノン英語版1912年 - 1976年)は労働者階級で商船の乗組員[8]として航海中であり、イングランド人であった母のジュリア・スタンリーは他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー英語版1903年 - 1991年)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン[9]、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ[9]。また、スコットランド人の血も引いている[10]

ジョンの父・アルフレッド(1966年

レノンを育てた伯母夫妻は中流家庭であった[11]。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年に帰国した父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが、母に連れ戻される。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して行方不明となった。

少年時代[編集]

レノンは1952年9月、グラマー・スクールクオリー・バンク校英語版に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ英語版1903年 - 1955年)が1955年に死去した。

レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガン英語版の「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[12]。さらに1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールに衝撃を受けたレノンは、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、母が近くに住んでいることを知ったレノンは、彼女の家へ通うようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、レノンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。

1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール[注釈 5]を作曲する。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。

ポール、ジョージとの出会い[編集]

3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。レノン以外のメンバーが定着しないまま活動を続けていた7月6日、演奏のためウールトンのセント・ピーターズ教会英語版に赴いた際、共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[注釈 6]。10月18日にマッカートニーをクオリーメンに加入させる。バンド活動と並行して、エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーバディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカロックンロールに夢中になった。またレノンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている[13]。1958年2月、マッカートニーからジョージ・ハリスンを紹介されたレノンは、間も無く彼のギター演奏技術を評価し、クオリーメンに採用した。

母の死[編集]

1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった[注釈 7]。母・ジュリアの死はレノンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたマッカートニーとの友情を固めた。

1958年9月、レノンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、クオリーメンのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになった。

ハンブルク時代[編集]

このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、レノンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、レノンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333を用いてベースを担当した。レノンを含めたメンバーはハンブルク滞在中に薬物、酒、性交、ロックンロールを楽しんでいた[14]。従ってボブ・ディランがビートルズに薬物を教えたという俗説は誤りである。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。

1961年4月、サトクリフはハンブルク滞在中に脱退し、画家を目指した。レノンは、すぐにマッカートニーを説得してベーシストに転向させた[注釈 8]。またレノンはこのとき、加入を申し出たクラウス・フォアマンを不採用とした。なお、サトクリフは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。

ビートルズ時代[編集]

ブライアン・エプスタインとの出会い[編集]

1961年12月、ビートルズは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[15]、ロンドンのレコード会社への営業活動を始めた。1962年1月1日に、デッカ・レコードの審査を受け不合格となるが、6月にEMIパーロフォンと契約を結ぶ。8月16日にベストが解雇され、以前からビートルズと親しく交流していた「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、ビートルズとしてレコード・デビューを果たした。

最初の結婚[編集]

シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚[15]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[16]

最初の妻のシンシア・パウエル
長男のジュリアン・レノン

長男・ジュリアン・レノンが1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とレノンに質問された」とマッカートニーは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。 ヒッピー文化に影響されたレノンとビートルズのメンバーは、ドノヴァンマイク・ラヴミア・ファロージェーン・アッシャーパティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている[17]

キリスト発言[編集]

1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード英語版紙のモーリーン・クリーブ英語版とのインタビューでレノンは次のように発言をした[18]

キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスはまぁイケてたんじゃない?けど弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ。」

この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部保守宗教団体による大規模な抗議活動が生じた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードや関連商品が燃やされた。スペインおよびヴァチカンはレノンの発言を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にレノンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。

「もし"テレビがイエスより人気がある" と言ったなら何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔してるよ。を否定していないし、反キリストでもなければ、反教会でもない。イエスを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。ただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。ビートルズがイエスより良くて偉大だとは言ってないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。言ったことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今に至る、ってことさ。」

「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」

ジョンとヨーコ:ベトナム反戦運動[編集]

2人目の妻の小野洋子

1966年にビートルズが公演活動を終了したあと、レノンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影に参加した。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリー英語版で開かれた展覧会を訪問し、後に2人目の妻となるオノ・ヨーコ(小野洋子)に出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたレノンは、当時日本や東洋文化に興味を持ち、禅宗の概念に強い関心を寄せていた。これを色濃く反映させたオノの作品に強い興味を示した。 レノンが見たオノの作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届く梯子と天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、"YES"とだけ書かれている。"No"とかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短い"YES"だったことに衝撃を受けた、と、レノンがそれをいたく気に入ったという逸話がある。レノンは、「Noとかの否定的な言葉だったら気に入らなかった。」と後に語っている。

資金提供を通じてレノンとオノは親交を持ち、同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間に交際を始めた。レノンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、オノと文通していた。5月、オノへの思慕を募らせたレノンは、妻を旅行に行かせ、自宅でオノとの同棲生活を始めた。7月に妻・シンシアと離婚を申請し、11月8日に正式に離婚した。

ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ、(中央)ティモシー・リアリー。「平和を我等に」のレコーディング中(1969年)
「平和を我等に」を歌うジョン・レノン(1969年)

1969年3月にジブラルタルで挙式したレノンは、オノと共に新婚旅行で訪れたパリジョンとヨーコのバラードを書きアムステルダムモントリオールで「ベッド・イン」という平和活動を行った。

結婚後まもなく、レノンはミドルネームの"Winston"を"Ono"に変更する旨を裁判所に申請したが、却下された。代わりに、レノンの本名はパスポートやグリーンカードなどの公文書に"John Winston Ono Lennon"と表記された。

彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物ともみなされるようになった。また、左翼団体の国際マルクス主義グループ英語版と関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた[19]。1969年以降は、レノンはオノとともにプラスチック・オノ・バンドを結成し、ベトナム戦争に対する抗議と平和を求める活動に参加した。イギリスのベトナム戦争支持を受け、1965年に受賞した大英帝国勲章を返上する。このほかにも「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」(ともに1969年)など、オノと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を発表した。

本格的なソロ活動を開始する前、レノンはオノと前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ英語版』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、レノンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心英語版』(1970年)、『フライ英語版』(1971年)、『無限の大宇宙英語版』(1972年)、『空間の感触英語版』(1973年)が発表された。

2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)がある。

レノンはビートルズ在籍中の1968年にソロ活動を開始し、1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)名義で作品を発表する。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはオノとのユニットで、メンバーは流動的だった。結成当初はベースはビートルズ結成以前からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。

1969年、シングル『平和を我等に』『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドの演奏を収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。クラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加した同公演の模様の映像はDVDスウィート・トロント』に収録されている。

ビートルズ解散後[編集]

1970年代[編集]

ビートルズが存続中の1970年2月、メンバーのハリスンも参加した『インスタント・カーマ』は、『レット・イット・ビー』とほぼ同時期に発表され、米英でトップ5ヒットとなりゴールドディスクを獲得した。

1970年4月10日、マッカートニーが脱退したことでビートルズが事実上解散した後アメリカ合衆国アーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法英語版を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。

1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、レノンは活動の拠点をアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで生活を始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。レノンはルービン、ホフマン、シールらの印象が、自分のそれと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済公演への出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善公演(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定の政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーFBIによる監視については、レノンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[20]。このような理由から、レノンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[注釈 9]

1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演し、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共に「メンフィス・テネシー」と「ジョニー・B・グッド」を演奏した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善公演に出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリー英語版がバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争アメリカ合衆国グリーンカードについて歌い、アルバム・ジャケットに裸踊りをするリチャード・ニクソン毛沢東の合成写真を使用した。1972年8月30日、レノンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善公演「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーと「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。同公演の模様は「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発売された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。

個人秘書のメイ・パン

1973年4月1日、レノンはオノとニューヨークで会見を開き、架空国家「ヌートピア」の建国宣言を行なった。また、リンゴ・スターのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト英語版」を提供。ハリスン、スターと共演した。9月、レノンはオノのもとを離れ、2人の個人秘書であったメイ・パンとともにカリフォルニア州ロサンゼルスで同棲生活を始めた[21]。この「失われた週末("Lost Weekend")」を、レノンはスターやハリー・ニルソンザ・フーキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれた息子・ジュリアンと再会を果たし、マッカートニーとも交流した。11月、アルバム『マインド・ゲームス』を発表した。

1974年3月からはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした。同年、自らプロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。

同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、ジョンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月に彼の公演に出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」を演奏した。同公演後に、レノンはオノと再会したと一説には言われており、実際に1975年1月には「失われた週末」を終えてオノの住むニューヨークへ戻った。この時期にはさらにローリング・ストーンズミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」に収録された。また、スターのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした(全米6位)。

息子のショーン・レノン

1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。同作から「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの『ヤング・アメリカンズ』(3月発表)でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマー英語版と「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイは、スタジオでレノンが発した「フェイム!」というかけ声に着想を得たという。ボウイは「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。レノンが35歳の誕生日を迎えた10月9日、第二子・ショーンが誕生した。同月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。

1976年にスターのアルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』に「クッキン」を提供したあと、ショーンの養育に専念にするため音楽活動から引退した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間レノンは「ハウス・ハズバンド」業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、時たま自作曲をテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。

1979年、ヴァルトハイム国連事務総長から、インドシナ難民救済公演にビートルズとしての出演を依頼される。レノンは公演の趣旨には賛同したが、参加を辞退した[22]

1980年代[編集]

約5年間の活動休止を経て、1980年に現役復帰を果たす。友人のデヴィッド・ピールのアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲の録音を開始した。ジョンはB-52's、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でレノンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言に触発されたとする説があるが、本人は否定している。11月、レノンはオノとの共作名義でアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表する。このアルバムは全世界で500万枚以上を売り上げ、「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米1位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米9位)などの大ヒット曲を生んだ[注釈 10]

1980年12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗るマーク・チャップマンに射撃され、30分後に死亡が宣告された[23][24]。(詳細は、#死亡事件を参照)

音楽性の発展[編集]

ビートルズ時代[編集]

1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。レノンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。レノンのこうした作風と、マッカートニーの明るい作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。

ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。

ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。マッカートニー作の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、彼の楽天的なメロディーに、レノンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした[25]

ビートルズ中期には、薬物インド音楽の影響を受け、幻想的でサイケデリック色の強い作品を制作した。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。

1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやレノンを語るときの代名詞ともなった。

後期は単独作が増やし、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」のようなブルース・ロックの曲を発表した。

ソロ時代[編集]

こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではより簡潔な和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも制作した。

また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[26]。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式[27]を踏襲した楽曲構成を行った。

わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている[26]

編曲・プロデュース[編集]

「レット・イット・ビー」をプロデュースしたフィル・スペクターを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターを起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「ウォール・オブ・サウンド」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指す簡潔な音作りがなされた[26]

ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」はジャック・ダグラス英語版、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった[28]。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デヴィッド・スピノザトニー・レヴィンなど)がある[29]。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[30]、大人向けのロックを創造した[31]。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ[32]分散和音的なアプローチも取り入れている。「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。

また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える[33]

ポール・マッカートニーとの関係[編集]

ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散から数年間、互いの楽曲中で中傷しあったり[注釈 11]、ニューヨークを訪れたマッカートニーがレノンに電話して口論を始めるなど深い確執が存在した。しかしビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップル・コアの管理など一連の訴訟が解決に向かう1970年代半ばになると、ウィングス]がアメリカを訪れた際にマッカートニーがレノンを訪問するなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールの名曲を一緒に演奏したテープも残されている。現在では、マッカートニーはビートルズの楽曲を歌う際にレノンのパートを担当したり、レノンのソロ曲をカバーしている。

マッカートニーがレノンの自宅を訪れたある日、テレビ番組の出演者が冗談で「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。これを観た2人は喜び、意気投合した。実現はしなかったが、マッカートニーは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。

またレノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンが死去した1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」[34]と述べている。

他のミュージシャンへの影響[編集]

ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。レノンが影響を与えたミュージシャンとして、ビートルズの同僚マッカートニーとハリスン、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる[35]。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。

反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。

ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている[36]。U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はレノンの同名曲に因んだものである。Nowhere誌の中で、元ポリススティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」と述べている。

1995年のレノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。

日本との関わり[編集]

ビートルズとして来日した1966年以降、妻のオノと頻繁に訪日していた。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作を日本語で「しぶいアルバム」と表現し、俳句の影響を示唆した[37]

軽井沢[編集]

音楽活動休止中の1977年から1979年には、家族と毎年訪日した。レノンは小野家の別荘があった長野県軽井沢を中心に過ごし、東京京都箱根などにも足を運んだ(合計約9か月(うち6ヶ月近くが軽井沢))[38]

軽井沢の町を自転車で走行したり、行きつけのパン屋喫茶店、付近の景勝地に立ち寄った時の様子などは、写真に多く残されている。なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のプライベート・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった。

古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。レノンはその気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで[39]、滞在中「この辺りに土地を買って軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという[40]。 軽井沢における定宿は万平ホテル旧館2階であった。ホテル併設のカフェにはレノン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはレノンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[注釈 12]。またレノンは、1979年に訪れた喫茶店に眼鏡とたばこ、ライターを置き忘れている。店はそれらを保管していたが、レノンは1980年に死去した。

レノンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている[注釈 13][41]

交友関係[編集]

日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともに取材を受けた加山雄三(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのレノン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則[42]、訪日時に食事をともにした内田裕也樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家湯川れい子とレノン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京で取材を受けている[43]写真家篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。なお、ビートルズ訪日時にメンバー全員とすき焼きを食べたエピソードで知られる加山雄三は、オノを通じてレノンと遠戚であることが後に判明している。

また、古美術商・木村東介の誘いで夫妻で歌舞伎隅田川を観劇し、終幕でレノンが感涙したという逸話もある。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、レノンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[42]

売り上げ[編集]

日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。

死亡事件[編集]

1980年12月8日の午前中、自宅であったダコタ・ハウスでレノンはアニー・リーボヴィッツによる「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカット髪型に眼鏡を外し、ビートルズ全盛期のころのように若返った姿が話題を呼んだが、この日のレノンはさらに髪を切り、グリースリーゼント風に整えて撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、学生のころのネクタイを探し出すよう頼んでいる。

レノンの自宅のあったダコタ・ハウス

撮影後にしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはオノの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出かけた。

一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組の取材を受ける。この最期の取材で、レノンは新作アルバムや近況、クオリーメン、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている[注釈 14]

22時50分、スタジオを出たレノンとオノはリムジンに乗り、自宅の前に到着した[44]。2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノンさんですか?(Mr Lennon?)」と呼びかけると同時に、拳銃を5発発射、うち4発をレノンの胸、背中、腕に命中させた。[24]、レノンは「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫び[45]自宅の入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに緊急通報に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分後に到着した。

警官の到着時、レノンはまだ僅かに意識を保っていたが、一刻を争う危険な状態にあった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部座席に乗せ、近くのルーズヴェルト病院英語版に搬送した。警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため質問すると、苦しみながら「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院に到着後、医師は心臓マッサージ輸血を行ったが、既に全身の8割の血液を失っていたレノンは、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時頃に死亡した[24]。満40歳没(享年41)。レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。

事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を投げ捨て、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道を歩き回っていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、「ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです」(I just shot John Lennon)と述べ、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がレノンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた[46]

病院でレノンの死を伝えられたオノは「彼は眠ってるっていう事?」と質問したという[47]。のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンの死亡を確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させる事はできなかった」と語った。

レノンの殺害に関して、彼の反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに仮釈放があり得る無期刑が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2020年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、レノンの遺族が釈放に強く反対していること、釈放されてもレノンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2024年現在も服役中である。

ダコタ・ハウスからすぐのセントラルパークにあるジョンを偲ぶ「イマジンの碑」

この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。イギリスサセックスの農家に滞在していたマッカートニーは「ジョンは偉大だった」と一言述べた後絶句[48]カナダに滞在中だったスターはのちに妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに赴き、遺族を見舞った。ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーは「ジェラス・ガイ」を、マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(マッカートニー、妻リンダデニー・レインジョージ・マーティンがバック・コーラスで、スターがドラムで参加)をレノンへの追悼曲としてそれぞれ発表した。

また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分したザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズも憤りを隠せなかった。音楽メディアはビートルズとストーンズをライバルと報道したが、実際には曲を提供したり、『ロックンロール・サーカス』で共演するなど深い親交を結んでいた。リチャーズの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していたと言える。

日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、12月24日、同クラブ主催の追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われた[49]。ステージには「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションで撮られたレノンの写真が大きく掲げられ、集会後、参加者がキャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行われている。

ディスコグラフィ[編集]

オリジナル・アルバム[編集]

シングル[編集]

映像作品[編集]

フィクション[編集]

音楽ビデオ・クリップ集[編集]

ライヴ演奏[編集]

ドキュメンタリー・記録[編集]

ジョン・レノンを題材とした作品[編集]

映画
テレビドラマ

書籍[編集]

自著[編集]

インタビュー[編集]

  • ヤーン・ウェナー著 片岡義男訳『ビートルズ革命』 草思社 1972年4月
    のち改題『回想するジョン・レノン : ジョン・レノンの告白』新版 1974年6月
    のち改題『レノン・リメンバーズ』(序:オノ・ヨーコ)同社 2001年7月
    - Lennon Remembers: The Full Rolling Stone Interviews from 1970(2000年)
  • アンディ・ピーブルズ著 北山修訳『All that John Lennon』中央公論新社 1981年2月
    のち改題文庫版『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』同社(中公文庫)2001年11月
    - Lennon Tapes Paperback(1981年)
  • 『ジョン・レノン PLAYBOYインタビュー』PLAYBOY編集部編 集英社 1981年3月
    のち全貌版 デービッド・シェフ著 石田泰子訳『ジョンとヨーコ ラストインタビュー : Love & peace』同社 1990年11月
    - The Playboy Interviews With John Lennon and Yoko Ono(1981年)
  • 『ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980』 ジェフ・バーガーDU BOOKS 2018年3月
    Lennon on Lennon: Conversations with John Lennon(2016年)

第三者による伝記[編集]

  • シンシア・レノン著 江口大行、シャーロット・デューク共訳『素顔のジョン・レノン : 瓦解へのプレリュード』 シンコーミュージック・エンタテイメント 1981年4月
    - A Twist of Lennon(1980年)
  • レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 1986年8月
    - John Winston Lennon Volume 1 1940-66(1984年)
  • トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳『ジョン・レノン : 愛こそはすべて』(解説:片岡義男)佑学社 1987年11月
  • ケヴィン・ホウレット、マーク・ルイソン著 中江昌彦訳 『ジョン・レノン IN MY LIFE』 日本放送出版協会 1991年11月
  • マイケル・ホワイト著 乾侑美子訳『ジョン・レノン 』 偕成社(伝記 世界の作曲家12)1999年4月
  • レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 2002年5月
    - Lennon: The Definitive Biography : Anniversary Edition(2000年)
  • ジェフリー・ジュリアーノ著 遠藤梓訳『ジョン・レノン : アメリカでの日々』 WAVE出版 2003年11月
    - Lennon in America: 1971-1980, Based in Part on the Lost Lennon Diaries(2001年)
  • シンシア・レノン著 吉野由樹訳『ジョン・レノンに恋して』 河出書房新社 2007年3月
    - JOHN(2005年)
  • メイ・パン著 山川真理訳『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド *: 『Instamatic Karma』 河出書房新社 2008年11月
  • ジョナサン・コット著 栩木玲子訳『忘れがたき日々 : ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして』 岩波書店 2015年12月

主な使用楽器[編集]

アコースティック・ギター[編集]

ギブソン・J-200
アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持っている写真が確認されている。
フラマス12弦ギター
映画『ヘルプ!4人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター。
マーティン・D-28
2台の所有が写真で確認され、1台目はポールと同時期のもので67年製、もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期から後期のものである。

エレクトリック・ギター[編集]

ヘフナー・クラブ40(Hofner Club40)
レノンが初めて入手したエレキギター。1959年製。ショートスケール。1959年にレノンが伯母のミミと一緒にリバプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。2台目のリッケンバッカー・325を手に入れると、レノンはクラブ40をしばらくマッカートニーに貸したあとに売却した。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
レノンが初めて入手したリッケンバッカーのギター。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・ヴァイブローラがつけられていた(のちにビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。トゥーツ・シールマンスをハンブルク巡業で見て影響されて購入した。1962年後半には黒色の塗装を施し、1964年までメインギターとして使用した。その後2本目のリッケンバッカー・325を導入してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、「エド・サリヴァン・ショー」の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、レノンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭に黒から、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに損傷していたためか、白いアクリル製のものに交換されていた。この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、さいたまスーパーアリーナ内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。
また、2002年にはリッケンバッカー社から同作の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器をおもに扱っているギター・ショップ「with」で修復を担当する大金直樹に依頼。大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。現在は生産を終了している。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
2本目のリッケンバッカーのギター。1964年のアメリカツアー中にレノンが入手した。当初はハリスンの360-12と同様、赤色系のぼかし(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ファイア・グロー」)だったが、レノンが黒色(ジェット・グロー)を希望したため、急いでリフィニッシュされた後、マイアミでの「エド・サリヴァン・ショー」出演時より使用した。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームがついているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは、3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にレノンが落としてしまったためネックが破損する。1965年末までメインギターとして使用された。1967年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音中にスタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見ると、ネック裏の傷がはっきり見て取れる。また、ビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
1965年、マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じて提供されたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、スターに譲渡された。
リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
ジョンが、リッケンバッカー社に特注した、325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」。
本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アームつきだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームがついていないにもかかわらず325-12に分類されている。1964年より、末尾に5がつくモデルはアームつきであることが徹底されたため、320-12と改番された。
現在はオノが所有。
ギブソン・J-160E(1本目)
1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・ギター。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプはJ-45と同じだが、ネックのジョイント位置が異なり、ボディ内部の構造も異なる。J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とはまったく違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。
ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな構成要素となっている。
カヴァーのないP-90ピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。1963年末に紛失。当時は盗難説と破損説があり、レノンはこれが盗まれたと発言していたが、ハリスンは「運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになった」と発言していた。実際には盗難されており、アメリカ合衆国カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたこのギターを購入していた。2015年にこのギターは発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、レノンが使用していた現物であると正式に認定された。その後オークションにかけられ、約3億円で落札された。最近の調査で、現在ハリスンの遺族が保管するハリスンのJ-160Eは、元々購入時にはレノンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明した。この2本はまったく同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。
ギブソン・J-160E(2本目)
2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスチック製になる。
レノンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらとともに塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取りつけられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにレノンとオノの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されていた。実物はアメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランドにあるロックの殿堂に展示されている。
フェンダー・ストラトキャスター
ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。主に『ラバー・ソウル』の録音作業で、ヴォックスAC30に繋いで使用された。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル(さらにリフィニッシュして「コンサート・フォー・バングラデシュ」で使用)のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
エピフォン・カジノ
以前から同器を使用していたマッカートニーに勧められ、ハリスンとともに1965年に購入。ハリスンのものとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の『ラバー・ソウル』録音作業において使用し始め、1966年からはハリスンと共に公演でのメインギターとしても用いた。日本公演でも本器が使用された。
元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ〜」の録音中に、ボディ裏面を白く塗装している。同年の「愛こそはすべて」を披露した衛星中継リハーサルにて、ハリスンがこのギターを使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」録音直後にボディのサンバースト塗装をはがして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。このころビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ハリスンのカジノとマッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。「ゲット・バック・セッション」および「ルーフトップ・コンサート」でも使用した。1971年の「イマジン」完成後にレノンはレスポールを使用し始め、その後は本器を大切に保管していた。
ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため、音が若干柔らかめになっている。
ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブとともに展示されていた。
ギブソン・レスポール・ジュニア
1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時レノンは、ボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、同じモデルを使用していたマーリーにならって本器を入手した。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、レノンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』録音や、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、1972年8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた慈善公演「ワン・トゥ・ワン」での使用がもっとも有名である。
ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。
また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、福山雅治ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文らが愛用している。

アンプ[編集]

ヴォックス・AC30(VOX AC30)
ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)の録音においてもっともよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのある音で、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。公演でも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR(PA)システムでは巨大な会場での演奏には向かなかった。
ヴォックス・AC50(VOX AC50)
ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE、VOX AC100、VOX AC200)
公演においてほとんど演奏が聞こえないという問題に対処するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ビートルズの公演のためにヴォックスが開発した大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのある音が特徴である。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つ音より箱鳴りの音の方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。
フェンダー・ツインリヴァーブ
おもにビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、公演や映像では登場しないが、録音ではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画『レット・イット・ビー』にて使用されている様子を確認できる。レノンは、フェンダー・ベースVIを接続して演奏していた。

その他[編集]

ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)
いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。
レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われたとき、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている。初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。
ホーナー・クロモニカ(M.HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳)
「ラヴ・ミードゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。これは、ブルース・ハープなどの10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。レノン自身もBBC出演時。司会者とのやり取りのなかで、10穴ハーモニカを「ハープ」、クロマチック・ハーモニカを「ハーモニカ」と呼んで区別している。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1974年リリースのアルバム『心の壁、愛の橋』においては、収録曲の自身の演奏者クレジットを全て変名で行っている。
  2. ^ 出生名はジョン・ウィンストン・レノンであるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。
  3. ^ ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。
  4. ^ のちに英国のベトナム戦争支持への反対を理由に返上した。
  5. ^ この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』で公式に発表された。
  6. ^ 2人は近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会ったことはなかったという。
  7. ^ 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。
  8. ^ サトクリフと並んでベースを演奏している写真がある。
  9. ^ レノンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的に勝訴した。
  10. ^ 没後、1982年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
  11. ^ ラム』でのマッカートニーのジョンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」におけるポールの作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がジョンを指すなど。
  12. ^ ニューヨーク日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本(ちくま文庫・2001年)として出版された。
  13. ^ その後、東京のホテルオークラで記者会見を開き、プレスリーの死について言及している。
  14. ^ このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。

出典[編集]

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外部リンク[編集]