コンテンツにスキップ

検索結果

(前の20件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示
  • 別失八里等処行尚書省(ビシュバリクとうしょ-こうしょうしょしょう)は、モンゴル帝国によって設置された中央アジアの統治機関。第2代皇帝オゴデイの時期から第4代皇帝モンケの時期にかけてモンゴル帝国の中央アジア統治を担ったが、1260年代の帝位継承戦争以後チャガタイ・ウルスに吸収・併合されて消滅した。…
    10キロバイト (1,638 語) - 2022年9月29日 (木) 02:58
  • 北庭大都護府のサムネイル
    管轄、突騎施・堅昆・突厥などの民族を統治していた。 790年(貞元6年)、吐蕃が庭州を攻略した際に北庭大都護府も廃止された。その後元朝の至元年間に別失八里等処行尚書省が北庭都護府と改称されたことがあったが、こちらもまもなく廃止されている。 現在、北庭都護府遺跡は全国重点文物保護単位に指定されている。…
    3キロバイト (405 語) - 2022年2月17日 (木) 08:32
  • ビシュバリクは、かつて天山山脈東部の北麓に存在した都市。9世紀から13世紀にかけて繁栄した天山ウイグル王国の首都だった。 漢語史料では別失八里のほか、鼈思馬、石把とも表記される。いつごろから「ビシュバリク」の名で呼ばれたかは明らかになっていないが、8世紀のオルホン碑文には既にビシュバリクの名が刻…
    7キロバイト (1,049 語) - 2019年5月7日 (火) 04:16
  • 村上1970,46/54-55頁 ^ 間野1966,19-20頁 ^ 『明太宗実録』永楽十四年三月壬寅「別失八里王馬哈麻姪納黒只罕遣使哈只等、貢馬及方物……又聞別失八里頭目忽歹達事其主四世、国人信服、今能賛輔納黒只罕、亦賜璽書綵幣加労之」 ^ 間野1964,6-7頁 ^ 間野1964,6頁 ^ 間野1964…
    6キロバイト (918 語) - 2021年9月29日 (水) 20:14
  • ンの有力者であったドゥグラト部のアミール(貴族)・フダーイダードの承認のもとに即位した。即位後にビシュバリクからイリバリクに遷都、明からは国名を「別失八里」から「亦力把力」に変えたと見なされた。 即位後、明に複数回朝貢した。1420年に従弟のシール・ムハンマドが反乱を起こすとこれを鎮圧するが、翌14…
    6キロバイト (544 語) - 2021年3月15日 (月) 14:32
  • 京等処行尚書省、中央アジアのほぼ全域を管轄する別失八里(ビシュバリク)等処行尚書省、アムダリヤ川以西のイラン一帯を管轄する阿母河等処行尚書省の三部門にモンゴル帝国全体の財務行政区を分割したが、マスウード・ベクは従前の管轄をほぼ全て引き継ぐ形でこの別失八里等処行尚書省の財務長官を任された。…
    8キロバイト (1,235 語) - 2023年12月8日 (金) 11:21
  • ^ 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』(北海道大学図書刊行会, 1999年2月)、300頁 ^ a b c 『明史』列伝第220、別失八里 『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社, 2005年4月)、556-557頁収録の系図 『明史』列伝第220、別失八里 『明史』巻332…
    2キロバイト (231 語) - 2022年4月16日 (土) 12:34
  • 1248年にグユクが急死し、オグルガイミシュとチンカイが処刑されたため、第4代カアン・モンケの即位時には、燕京等処、別失八里等処、阿母河等処の3地方、すなわち旧金朝領である華北一体、トルキスタン(マー・ワラー・アンナフル方面一帯)、イラン方面の行尚書省が設置されたが。彼…
    6キロバイト (988 語) - 2022年9月8日 (木) 06:08
  • モグーリスタン・ハン国のサムネイル
    ャガタイ・ハン国をジェテ(盗賊)、あるいはジャタ(Jatah、辺境)と呼んで忌み嫌った。 元から漢地を奪取した明はモグーリスタン・ハン国を指して「別失八里」(ビシュバリク、現在の昌吉回族自治州ジムサル県)や「亦力把力」(イリバリク、現在のイリ・カザフ自治州グルジャ市)という語を用いた。近現代の研究に…
    21キロバイト (1,991 語) - 2023年11月22日 (水) 06:11
  • 2005年4月)、556-557頁 ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、6頁 ^ 『明史』巻332、列伝第220、別失八里 ^ 間野「十五世紀初頭のモグーリスターン ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』23巻1号、5-6頁 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン…
    2キロバイト (255 語) - 2018年11月17日 (土) 08:40
  • 野訥馳帰太祖、一見大悦、即令諸皇子受学焉。仍令月朶野訥以質子入宿衛。従帝西征。至別失八里東独山、是城空無人、帝問『此何城也』。対曰『独山城。往歳大饑、民皆流移之它所。然此地当北来要衝、宜耕種以為備。臣昔在唆里迷国時、有戸六十、願移居此』。帝曰『善』。遣月朶
    5キロバイト (927 語) - 2022年11月16日 (水) 02:09
  • 『明太宗実録』永楽三年正月乙巳「韃靼掃胡児与其弟答剌赤八速台・迭児必等来帰。掃胡児阿魯台部属也。言、鬼力赤鬥、兀良哈・哈密内属朝廷、遂相猜防、数遣人、南来窺伺。上曰、狡虜情状固亦如、是謹吾辺備虜何能為……」 ^ 『明太宗実録』永楽三年四月庚辰「遣使以綵幣賜別失八里王沙迷査干。時哈密忠順王安克帖木児為鬼力赤毒死、沙…
    15キロバイト (2,419 語) - 2024年1月7日 (日) 11:08
  • 塞蘭 - カザフスタンのシムケントの東のサイラム 達干 - ウズベキスタンの首都のタシュケント 卜花児 - ウズベキスタンのブハラ 渇石 - ウズベキスタンのシャフリサブス 養夷 - カザフスタンのタラズ 別失八里 - 中華人民共和国の新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州ジムサル県のビシュバリク…
    4キロバイト (530 語) - 2022年10月16日 (日) 13:52
  • ^ 杉山2004,75頁 ^ 松田1996,37頁 ^ 『元史』巻3憲宗本紀「二年壬子……夏、駐蹕和林。分遷諸王于各所、各丹于別失八里地、蔑里于葉児的石河、海都于海押立地、児哥于曲児只地、脱脱于葉密立地、蒙哥都及太宗皇后乞里吉忽帖尼于拡端所居地之西。仍以太宗諸后妃家貲分賜親王」 ^ 村岡1992,36頁…
    4キロバイト (530 語) - 2022年11月23日 (水) 08:40
  • ^ 『元史』巻135列伝22明安伝「二十九年、以功陞定遠大将軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。時別失八剌哈孫盗起、詔以兵討之、戦于別失八里禿児古闍、有功、賊軍再合四千人於忽蘭兀孫、明安設方略与戦、大敗之。大徳二年、復将兵北征、与海都戦。七年、歿于軍。子曰帖哥台、曰孛蘭奚」…
    11キロバイト (2,022 語) - 2022年7月4日 (月) 08:08
  • 天山ウイグル王国のサムネイル
    )」と呼んでいる。初期のモンゴル帝国では「ウイグリスタンからジャイフーン川(=アム川)に至る地域」はひとまとまりの地域として扱われ、漢文史料上で「別失八里等処行尚書省」と呼ばれる統治機関が置かれていた。 「五番目の世嗣」として格別の厚遇を受けたウイグル王家はモンゴル帝国治下で繁栄を続けたが、1260…
    32キロバイト (3,651 語) - 2023年3月16日 (木) 11:55
  • シギ・クトク ブジル ヨリク・テムル 移剌買奴 シリ・ガンボ ムングスズ サイイド・アジャッル ヒタイ総督府(燕京等処行尚書省) トルキスタン総督府(別失八里等処行尚書省) イラン総督府(阿母河等処行尚書省) ^ 前田1973,145頁 ^ 訳文は村上1976,232-233頁より引用 ^…
    13キロバイト (2,176 語) - 2022年9月29日 (木) 02:56
  • メリク (オゴデイ家)のサムネイル
    松田1996,32頁 ^ 村岡1992,32-33頁 ^ 『元史』巻3憲宗本紀「二年壬子……夏、駐蹕和林。分遷諸王于各所、各丹于別失八里地、蔑里于葉児的石河、海都于海押立地、児哥于曲児只地、脱脱于葉密立地、蒙哥都及太宗皇后乞里吉忽帖尼于拡端所居地之西。仍以太宗諸后妃家貲分賜親王」 ^ 村岡1992,32頁…
    7キロバイト (932 語) - 2024年6月5日 (水) 19:04
  • 明史のサムネイル
    列伝第二百二十 西域四 - 撒馬児罕・沙鹿海牙・達干・賽藍・養夷・渇石・迭里迷・卜花児・別失八里・哈烈・俺都淮・八答里商・于闐・剌思・俺的干・哈実哈児・亦思弗罕・火剌札・乞力麻児・白松虎児・答児密・納者罕・敏真・日落・米昔児・黒婁・討来思・阿速・沙哈魯・天方・黙徳那・坤城哈三等二十九部・魯迷…
    68キロバイト (11,769 語) - 2024年2月13日 (火) 09:31
  • カラ・ホジョの戦いのサムネイル
    「明安、康里氏。[至元]二十年……。又明年……。明年、至別失八剌哈思之地、与海都軍戦有功」 ^ 『元史』巻154列伝41李進伝,「李進、保定曲陽人。……[至元]二十三年秋、海都及篤娃等領軍至洪水山、進与力戦、衆寡不敵、軍潰、進被擒。従至摻八里、遁還、至和州、収潰兵三百餘人、且戦且行、還至京師、賞金織紋衣二襲・鈔一千五百貫」…
    29キロバイト (4,975 語) - 2023年8月2日 (水) 08:50
  • 石把。城西二百里、有輪臺縣」。記云「南出金山前、渡河而南、度白骨甸、涉大沙陀、至回紇小城北、沿川西行、歷二小城、至鼈思馬大城。此大唐時北庭端府。其西三百餘里、有縣曰輪臺。又歷二城、至昌八剌城」。鼈思馬、卽石把、元史之別失八里、畏兀兒都︀城也。克剌普羅特曰「別失八里
(前の20件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示